紅葉を見に
2012年 10月 24日
雨飾温泉から妙高側に抜ける林道は、紅葉が見事だと、昔聞いた覚えが御座りまして、先日、出かけて参りました。
松本から148を北上しとりますと・・・・・・・・・
おっとぉ!
目の前で軽ワゴンがコテンっ!
一車線を、見事にまたぐ軽ワゴン転倒によって、148号線は一時、かなりの渋滞となったで御座る。
で、とりあえず、発火の懸念もあったので、閉じ込められている、老夫婦を車から脱出させて、老夫婦の脈、顔色を伺い、緊急の状態かどうか、或は、ご自身で要請為されるか、それを伺いました
そして。
其れがしの車で軽ワゴンを、斜め状態から道路と平行になる様、ズリズリと引っ張ります。
そうして、通りすがりの気の良い若者と、我が妻に頼み、渋滞中の車を、交互に誘導してもらい、状況悪化を最小限にしたで御座る。
次に、滑車持ち込みのおじさんと、牽引ロープ持ち込みのおじさんと其れがしで、道路脇の鉄柱に支点をつけてキコキコ。
車が少し浮いてきた時点で、有志一斉の力技が炸裂!
車を起こし終わった頃、偶々警邏中の警官登場・・・・
なので、この人のやる気が有る無しに関わらず、事故処理はまかせて、復旧の有志と其れがしは、その場を後にしたで御座る。
聞けばご夫婦とも「居眠り」していたそうで御座る。下手をすれば、崖下に一直線の場所で事が起きましたが、かすり傷一つ無い、不幸中の幸い。
とても温厚で生真面目そうなこのご夫婦は、この御歳まで、辛苦もあった人生であるかと存じます。この後も、詰まらぬ事で落命せず、静謐な暮らしの中で、御長命であってほしいものですな。
そして翌日。
凄まじい前線が、じりじりと近寄っている等、到底思えない秋晴れの中、件の林道を走ります。
かなり切れ込んだ谷筋を、ひたすら県境の峠まで登りが続きます。
紘武士くんも些か緊張気味。
確かに、綺麗な色でござる。
笹ヶ峰という所に降りて参りますと、
雪山讃歌の歌碑がござりました。
京大出身の作詞者、西堀栄三郎殿(第一次南極観測越冬隊隊長)は、群馬の鹿沢温泉で「愛しのクレメンタイン」の替え歌として、作られたと聞いておりますが・・・・
近くに京大のヒュッテがあったので、そこで歌い継がれてきたのですなきっと。
さて。
そこから長野〜上田に出まして、143を松本に向けて進行。
前から見たかった峠に向かいます。
そこは、国道20号線の塩尻峠から、3km程西にある、勝弦峠(かっつるとうげ)と言う所で御座ります。
天文17年(1548年)7月、武田晴信公と小笠原長時公との合戦が、この峠で行われたので御座ります。
この年の2月に、対村上戦で甚大な損害を被った武田家に対し、この機とばかり、信濃守護、小笠原長時公は、諏訪西方衆や他の豪族・地侍を糾合した、信濃連合軍を形成し、武田反抗作戦を展開する事態となったので御座るが、中々開戦に踏み切らない武田軍を侮った、小笠原公率いる信濃連合は、折しも7月暑さもあり、油断しきっておりましたそうな。
しかし、ある夜。
夜陰に紛れて、3手に分かれた武田軍3000が、大体深夜2時ぐらいに、勝弦峠に陣を敷く、信濃連合5000を急襲。
結果は、数の上で劣る武田軍の圧勝。
村上戦での大敗から、武田軍が息を吹き返す契機となった、勝利で御座ります。
余談ながら。
負けた小笠原公は林城に敗走。その後、小笠原領を武田軍が侵攻した折は、村上義清公の元に逃げるのでござる。
小笠原公の林城は、侵攻した武田軍によって破棄され、新たな「深志城」を築城し、松本平の支配仕置きを行ったのでござるが、その深志城こそ、現在の国宝「松本城」に御座ります。
現在の勝弦峠は、御覧の様に、往事を偲ぶ事跡の碑も無く、あまりに寂しい限りでござりますが、ここで散っていった侍の魂が、安寧であります事を、そっと祈った次第に御座ります。
松本から148を北上しとりますと・・・・・・・・・
おっとぉ!
目の前で軽ワゴンがコテンっ!
一車線を、見事にまたぐ軽ワゴン転倒によって、148号線は一時、かなりの渋滞となったで御座る。
で、とりあえず、発火の懸念もあったので、閉じ込められている、老夫婦を車から脱出させて、老夫婦の脈、顔色を伺い、緊急の状態かどうか、或は、ご自身で要請為されるか、それを伺いました
そして。
其れがしの車で軽ワゴンを、斜め状態から道路と平行になる様、ズリズリと引っ張ります。
そうして、通りすがりの気の良い若者と、我が妻に頼み、渋滞中の車を、交互に誘導してもらい、状況悪化を最小限にしたで御座る。
次に、滑車持ち込みのおじさんと、牽引ロープ持ち込みのおじさんと其れがしで、道路脇の鉄柱に支点をつけてキコキコ。
車が少し浮いてきた時点で、有志一斉の力技が炸裂!
車を起こし終わった頃、偶々警邏中の警官登場・・・・
なので、この人のやる気が有る無しに関わらず、事故処理はまかせて、復旧の有志と其れがしは、その場を後にしたで御座る。
聞けばご夫婦とも「居眠り」していたそうで御座る。下手をすれば、崖下に一直線の場所で事が起きましたが、かすり傷一つ無い、不幸中の幸い。
とても温厚で生真面目そうなこのご夫婦は、この御歳まで、辛苦もあった人生であるかと存じます。この後も、詰まらぬ事で落命せず、静謐な暮らしの中で、御長命であってほしいものですな。
そして翌日。
凄まじい前線が、じりじりと近寄っている等、到底思えない秋晴れの中、件の林道を走ります。
かなり切れ込んだ谷筋を、ひたすら県境の峠まで登りが続きます。
紘武士くんも些か緊張気味。
確かに、綺麗な色でござる。
笹ヶ峰という所に降りて参りますと、
雪山讃歌の歌碑がござりました。
京大出身の作詞者、西堀栄三郎殿(第一次南極観測越冬隊隊長)は、群馬の鹿沢温泉で「愛しのクレメンタイン」の替え歌として、作られたと聞いておりますが・・・・
近くに京大のヒュッテがあったので、そこで歌い継がれてきたのですなきっと。
さて。
そこから長野〜上田に出まして、143を松本に向けて進行。
前から見たかった峠に向かいます。
そこは、国道20号線の塩尻峠から、3km程西にある、勝弦峠(かっつるとうげ)と言う所で御座ります。
天文17年(1548年)7月、武田晴信公と小笠原長時公との合戦が、この峠で行われたので御座ります。
この年の2月に、対村上戦で甚大な損害を被った武田家に対し、この機とばかり、信濃守護、小笠原長時公は、諏訪西方衆や他の豪族・地侍を糾合した、信濃連合軍を形成し、武田反抗作戦を展開する事態となったので御座るが、中々開戦に踏み切らない武田軍を侮った、小笠原公率いる信濃連合は、折しも7月暑さもあり、油断しきっておりましたそうな。
しかし、ある夜。
夜陰に紛れて、3手に分かれた武田軍3000が、大体深夜2時ぐらいに、勝弦峠に陣を敷く、信濃連合5000を急襲。
結果は、数の上で劣る武田軍の圧勝。
村上戦での大敗から、武田軍が息を吹き返す契機となった、勝利で御座ります。
余談ながら。
負けた小笠原公は林城に敗走。その後、小笠原領を武田軍が侵攻した折は、村上義清公の元に逃げるのでござる。
小笠原公の林城は、侵攻した武田軍によって破棄され、新たな「深志城」を築城し、松本平の支配仕置きを行ったのでござるが、その深志城こそ、現在の国宝「松本城」に御座ります。
現在の勝弦峠は、御覧の様に、往事を偲ぶ事跡の碑も無く、あまりに寂しい限りでござりますが、ここで散っていった侍の魂が、安寧であります事を、そっと祈った次第に御座ります。
by mononofu009
| 2012-10-24 21:57
| お出かけ